自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

010.

 人が力を合わせて何かをする、例えば堤防を作るというような場合、能力の大きな者が能力の小さな者より多くの作業量をこなすのは自然の結果である。体力のある者は多くの土を運ぶだろうし、体力のない者はより少ない土を運ぶであろう。しかし、出来上がった堤防の恩恵は全員が享受する。人は元来、そのようにして生きていた。
 もし、そこで、運んだ土の量が少なかった者が、多くを運んだ者に対して報酬を支払わなければならないとだれかが言いだしたとしたら、それは合理的であろうか。
 人は生きていく必要上、多くの共同作業をする。そのつど、能力の低い者が高い者に「支払う」のだとしたら、共同作業の多くは行われないであろう。そのことは、能力の高い者にとっても損失であるはずである。
 社会の社会たる目的は、共同作業を重ねることにより、その社会に属する者の福利をはかっていくことにあるにもかかわらず、多くの共同作業が行われないとしたら、社会の意味自体が薄れるのである。
 資本主義社会は、人を能力において差別する社会である。明確にいえば、弱者が強者に支払うのである。だから、多くの人がいやいや働いている社会である。
 いわゆる共産主義の国々が、この資本主義の国との生産競争に敗れて消滅していったことをもって、資本主義が最終的で最善の社会体制であることが証明されたかのように言う人があるけれども、じつはこれから、資本主義はそれ自体がもつ矛盾によって崩壊していく段階に入ったのである。
 資本主義は、それが最も効率的に運営される状態を求めて、民主主義を採用した。いわゆる共産主義国は、その社会体制が本来的に民主的であるという幻想の上に立っていたがゆえに民主主義を採用しなかった。その差が、いわゆる共産主義の凋落という結果を生んだのである。
 民主主義は多数決原理をとるものだが、今日、もし選挙民の半数以上が政権を支持しないなら政権は存在してはならないと規定したならば、ほとんどの国は無政府にならざるをえないであろう。無政府ということは、国家が否定されることである。
 たしかに、国家は否定されているのである。ただ、それが「全的に」でないだけである。
【追記 社史制作との関連 20190310】 「社史制作の5原則」でも述べたことだが、人が働くということは本源的にはホモ・ルーデンスの理論につながるもので、必ずしも報酬がインセンティブではない。むしろ、高すぎる報酬が成果を低くすることがあるという研究も「TED」で発表されていた。少なくとも、人が意欲的に働くということは、報酬が必ず有効なインセンティブjになるというような単純なことではないのだ。