自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

008. 言葉の芸術性について

 言葉は情報伝達の手段である。現代に生きるわれわれの身の周りには、個人的な意思をはじめとして、公的・私的なニュース、仕事上の諸々のコミュニケーション情報など、雑多にしてさまざまなレベルにわたる情報があふれかえっており、その大部分は言葉によって処理されている。その情報の数を、もし数えることができるなら、それは原始の人々がもっていたものの何千倍、何万倍、何十万倍、何百万倍にもなることだろう。
 当然ながら、情報が増えた分だけ言葉も増えている。けれども、言葉が増えた分だけ、われわれはより大きな幸福を獲得できたといえるだろうか。
 むしろ、多くの言葉をもたない動物の鳴き声の、いかに意味に富んでおり、われわれの口にする言葉の、いかに意味の希薄なことだろう。こう考えるとき、われわれは一羽の小鳥ほどの自由も、じつは有していないのではないかという疑問をもつ。
 われわれの言葉は、むろん鳥獣の鳴き声、叫び声と同断でなく、われわれに特有の知的なツールである。だが、そのことが、鳴き声や叫び声としての働きを排していく方向のみをもって、言葉の発達と定義づけるわけではあるまい。それどころか、われわれは、言葉を使っているというよりは使わせられているという方が当たっており、決して真に知的とはいえないのであって、むしろ状況は逆である。われわれは多くの言葉を獲得して愚かさを身につけたのであり、正に知的であろうとするならば、既成の言葉の呪縛から脱出する方向を常に模索する必要がある。
 われわれは、言葉が、「使わせられる」ものでなく、自ら「使う」ものであることを、今こそはっきりと自覚したい。われわれが本当に伝達すべき情報は、いつでも、「まだ言葉になっていない」のだ。それが「生きる」ということである。われわれは決して既成の言葉に頼って生きるのではなく、極端にいえば、生きようとして無意識に言葉を口走るのである。本当に力をもつ言葉とは、常にそのようなものである。
 これはすなわち芸術である。われわれが言葉を「使う」ということは、日々に芸術を行うにほかならない。

1997.04.30