自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

001. 脳内薬品

 「脳内薬品」というものがあって、アメリカで大流行だという。ストレスに起因する大小の鬱病的障害を取り除き、脳の本来の活動を回復させる、とされている。アメリカで流行ったものはなんでも何年か遅れで入って来るのがわが国の常だから、日本でもアメリカのように十人に一人がこれを使用するようになるのかもしれない。現に、すでにいくつかの製薬会社から製造販売許可が当局に申請され、承認を待っている段階であるそうだ。
 二千万人が日常的にこの薬を服用しているアメリカにおいても、薬で精神をコントロールすることについては当然のことながら賛否両論がある。常識的には、この薬がなければ正常な社会生活を送れないような人は服用もやむをえない、ということのようだが、だとすれば、アメリカでは十人に一人がそのように自己診断しているのだろう。薬を飲んでいくらかでも気分がましになるならば、それゆえに自分はやはり鬱病だったのだと、逆から自己診断しつつ飲んでいる人もいるかもしれない。
 麻薬のような習慣性とか副作用はないのだそうだ。そう聞くと、なんだか飲んでみたくなる。私だって、貧乏暇なし、十年このかたほとんど休日というものがないほど働きづめで、決して脳味噌の状態がまともだとは思っていない。対人緊張、強迫観念、重圧感にさらされ続け、鬱病とはいわないまでも、ストレスにより、自由闊達、多情多感であるべき脳の活動力が相当に低下しているものと思われる。そう考えると、たしかにその自覚さえあるような気がしてくる。自分はじつは長い間、「鬱」で苦しんでいたのだと思われてくる。この苦しみから解放され、脳の自由が回復されるなら……飲んでみたい!
 しかし、アメリカにおいても、この薬の絶大な効果を認めながら、あえて服用を中止した人もいる。
薬によって気分は安定し、社会生活にとどこおりはなくなったけれども、それは真の自分ではない、薬ではなく人間的な努力のプロセスを通じての回復こそ真の自分の回復だ、という見識からである。たとえ回復できなくて、沈鬱な精神状態が続くとしても、それこそ本当の自分であって真に価値のあるものだと言う。そして、写真撮影が趣味のその人はさらに言う。「そうした苦しい精神状態で撮った作品こそ、本当に良い作品になっている」と……。ウム、それも解るような気がする。
しかしまたその一方で、薬で脳の活力を回復するのは、近眼の人が眼鏡をかけて世界を「ありありと」見ることができるようになるのと同じだと専門医が語るのを聞くと、そんなふうになるのか、そんなふうに、この、知性も感性もドブ川のように濁りよどんだ鈍重な頭がすっきりして澄明になるのかと、思わず浮き足立つほどの魅力をその薬に覚えてしまう。なんたって抑鬱状態を自覚しているものだから……。
 だが、脳が活力を取り戻したとして、そのあとはどうなるだろう。同じストレスにさらされていれば、また活力が低下するにちがいない。とすると、状況が変わらない限り、死ぬまで薬を飲み続けなければならないことになる。それはいいことなのか、悪いことなのか。
 考えてみよう。そう、いかに大きなストレスの中に置かれたとしても、この薬を飲み続ける限り、脳はストレスを認識はしても機能劣化あるいは変質することはないのである。例えて言うと、昔の奴隷のようなうき目にあったとしても、決して鬱状態になったりはしない。健全かつ単純に「くそ面白くない」と思い続ける。要するに「鬱になる」か「いやだとはっきり思い続ける」かの違いである。
 苦痛との関連でさらに考えてみよう。人がストレスによって鬱になるのは、ストレスに鈍感になろうとする防御反応が働いた結果、局面打開への意欲の自己認識も鈍感になるのだと考えられる。しかし意欲自体はより深い心の層の中にある。あるからこそ「死んでしまいたい」という鬱特有の心理状態が発生する。ストレスという「外なる」苦痛には鈍感になっても、「内なる」苦痛に悩まされるわけである。外なる苦痛には立ち向かう術もありうるが、内なる苦痛には自分を消滅させるしか手だてがない。
 奴隷の例ではどうなるか。薬あるがゆえに鬱にならない、あるいはなれない奴隷は、抑圧のストレスにいつまでも敏感なわけだから、いずれ抵抗に立ち上がるか、あるいは逃走を試みるだろう。そうしなければ苦痛を目一杯に感じ続けるだけだから。そしてその結果は殺されることになるだろう。一方、鬱の奴隷は、鬱に悩んで自殺するか、悩みつつ「生きながらの死」を味わい続けることだろう。
 あるいは、鬱にならない奴隷は、意識的か無意識的かしらないが、主人に取り入って、そのことにより苦痛を軽減するという手段をとるかもしれない。鬱の奴隷にはそういう真似はできない。
 薬を飲むか飲まないか、そのことが、奴隷の場合は右のような生き方のどれかにつながることになるわけである。
 それでは、現代の奴隷であるわれわれはどうすればよいのだろうか。薬を飲むべきか飲ざるべきかの判断の一つの分かれ目は、現状を抵抗や逃走可能なものとみるか不可能なものとみるかであり、もう一つの分かれ目は、抑圧者に取り入る生き方を自分が選ぶか選ばないかということになる。
 しかし、およそ何事にも無定見な私としては、現状がじつのところどうなのだか考えようもない。また、強者に取り入る生き方はできないなどと立派なことは言えないが、そんなことを続けるのが面倒なのも確かである。だから私がどうするかは、薬を目の前にするまでは分からない。
 分からないが、とりあえず楽になれるという魅力に引かれて、一回ぐらいは飲むのではないかと思う。飲んで元気になって、またストレスに疲れて、また一回や二回は飲むかもしれないが、やがてはやめてしまって、今の自分と同じことになるだろうという気がする。

1996.12.23