自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

096. 尊厳性の源

 上記の「ハイブロウな熱」こそ、じつは人間の、また他のあらゆる生物、無生物の尊厳性の源である。これをことばで限定的な意味に押し込めようとすることから誤謬と悲劇がが発生する。ナントカ主義というのはすべてその傾向をもつのである。
 資本主義経済の進展から人間社会の法則と流れについての理論を設定し、これからはナントカの時代だというようなことを評論家はいつも言うのだが、それは不易流行の流行の部分でしかない。問題は不易の部分を流行の部分と同様に把握することである。
 破綻前の銀行に国庫から資金を投入したために日本は金融危機から脱出できた、と元大蔵相役人が自画自賛し、そうした政策を批判したエコノミストを謝っていたかのように言っているのをテレビで見た。もしそのような施策を行わなかったら、とんでもない経済状況に陥っていただろうというのである。
 そうしたことは資本主義体制下では限定的・一時的に有効なのかもしれないが、そうした発想がまかり通ることはきわめて危険である。資本主義もマルクス主義も少なくとも「人間のための思想」であったはずなのだが、ここにはいわば人間の尊厳を無視した「体制主義」がみられる。またそうしたものが「知恵」なのだとする錯覚がみられる。
 体制を維持し、国民生活を守るためには不公正な施策もやむをえない、というような状況は、それ自体が誤謬である。病的な状況下で病的な施策が奏功したからといって、それをなにか「叡知」のように思うべきではない。それは知恵の中でも最も下劣なものであり、そうした姑息な猿知恵では決して国民全体、人類全体のためのビジョンは開けない。
 それでは日本経済が破綻してもよいのか、というのが彼らの常套的な言い分であるが、妙な話であると思う。不公正をやらないというのは最優先の前提であり、その中で破綻を防ぐのが行政の使命ではないか。経済的破綻を防ぐためにはモラルを無視してよく手段も選ばなくてよいというのでは、保険金殺人もある場合には許されるというようなものである。
 哲学から科学への歩みは、節度を取り戻し、科学から哲学へのチェックをこのへんで一度入れなければならない。

1999.07.20