自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

036. 「累進課罪」のすすめ

 キリスト教では神は万物の創造主であるとされている。しかし、神が造ったにしては、世界はあまりに平和と安息が少なく、あまりに争いと悲惨が多すぎるのではなかろうか。むしろこの世は悪魔の造作物であり、人間はその呪われた運命を克服するために歴史を重ねてきているのだと考える方が私には納得がいきやすい。科学技術により、あるいは社会思想により、人間は多くの悪と悲惨を脱し、今日に至っている。けれども現在が究極の高みにあるとはおそらく誰も言うまい。ある人は現代資本主義社会こそ人間の行き着いた最終ステージで、そのより良い方向への改革が残された高みへの道だと言うかもしれないが、それよりも私には、現代資本主義社会こそ克服すべき最後の悪であり、もしそれが克服されたならば、その後にもはや悪の克服でなく善への模索というまったく新たな歴史のベクトルが動きはじめると考える方が自然なのである。しかしながら当然、もし最後の悪が克服されたならば、というところが問題で、悪魔が造った世界である以上、克服は不可能とする思想もあってよいだろう。ところで、現在が最終ステージと考える思想の根拠は、市場経済こそ最良の生産物が最大の効率で得られるシステムであるという確信にちがいない。それはさらに言えば、優勝劣敗という資本主義のダーウィニズムを基本的真理として承認しているわけである。私はうかつにも、キリスト教が進化論を否定するのは宗教的蒙昧のゆえと長い間考えていたが、問題はそんな呑気なことではなかった。神はさまざまな試練をもって人間を試みるが、優勝劣敗という悪を基本理念としてこの世を造られたはずはない、という信念をキリスト者たちは表明したのである。すべての宗教は、貧者ほど善であり富者ほど悪であると説くがゆえに普遍性を保ちうる。いわば劣勝優敗を説くのであり、それはむろん神を唯一至高とするための政治的手段でもあろうが、いずれにせよこれなくして宗教は成立しないのである。神を死なせたものは決してマルクス主義でなく、優勝劣敗の資本主義なのである。神はこの最終的悪を克服することはできない。そこで逆に、悪魔こそがこの最終的悪を、市場経済を克服させうると考えられないだろうか。そもそも優勝劣敗の市場経済が基本原理であるとするならば、何ゆえに人間に法律が必要なのか。万人の万人に対する争いで十分である。たとえば、殺人が裁かれないとしたら、誰が最も殺されやすいだろうか。いうまでもなく「持てる者」である。動機は怨恨であるかもしれず、あるいは略奪のためであるかもしれないが、「持たざる者」は「持てる者」に比べてその対象とははるかになりにくいことは直ちに了解しうる真理である。自由競争を基本理念とする者は、法を否定してしかるべきである。法は必ず人間の自由を規制するものであるからだ。人は誰しも殺されたくないがゆえに殺すことを罪とし、盗まれたくないがゆえに盗むことを罪とする法を承認するが、その恩恵を受ける度合いは「持てる者」の方が「持たざる者」よりもはるかに大きいのだ。法の前に万人が真に平等であるためには、その法の恩恵を受ける度合いが平等でなければなるまい。そうでない以上、法は万人に平等に適用されるがゆえに、じつは決定的な不平等を現出するのである。真に平等な法を作ろうとすれば、まず恩恵を受ける度合いを個々人について正確に計測し、それに合わせて適用を調整するべきである。たとえば、億万長者が乞食から千円盗めば懲役10年、乞食が億万長者から1億円盗むなら懲役1日とする。市場経済・自由競争は基本原理なのだからそのままにしておく。これは、一見、所得税の累進制を徹底して個々人の収入を結果的に同じにするのと同じ発想のように思えるかもしれないが、現実にこれを行うなら結果は決して同じではない。悪魔が人間に与えた欲望はそのように底の浅いものではない。現在よりはるかに治安の悪い時代においてすら、才覚ある者はしっかりと手腕を発揮して成功を収め、保っていたのである。まして、適用法がちがうだけで、法治主義は厳然と守られ、自由競争も保証されるのである。ではこれで何が変わるかといえば、「持たざる者」の精神の自由が拡大され、「持てる者」のそれは縮小される。物質的な豊かさを求める者ほど精神は不自由となり、精神の自由を求める者ほど物質的には貧しくなる。どのへんのバランスを選ぶかは個々人の自由である。「現代の日本人は物質的には豊かになったが精神は貧しくなった」とは言い古された言葉だが、じっさいはそうでない。物質的に豊かなほど精神も自由だからこそ人は物質を求めたのである。その前提条件を緩和するこの「法適用の調整」を、思いつきの小手先的処理であって普遍性をもち得ないと考えるなら、そこにこそ決定的誤謬がある。じっさいにこれを運用していけば、必ず、これこそが本来あるべきものであったことを人々は実感することだろう。そうして、これを元に戻せという意見を吐く者を、理不尽な弾圧者と感覚するにちがいない。ついでに言えば、こうした措置により起業家が減って不況になると心配するなら、累進課税を軽減し、法人税も引き下げればよい。欲望全開の道はいくらでも開けるというものだ。

1998.01.26