自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

011. 本末転倒

 先頃、政府の行政改革策に抗議するため、族議員たちが首相官邸に押しかけたという報道があった。
これを聞いて、多くの人は、こういう連中がいるから行政改革は進まないのだ、というふうに感じたことだろう。
 しかし、ここで少し考えてみなければならない。そのように、行政改革が正義の実行で、それへの反発がエゴイスティックなごり押しの圧力のように感じているだけでよいのだろうか。
 行政改革の目的は、単に公務員の数を減らして歳出を削減するというようなものではないはずである。明治以来基本的構造が変わっていない行政機構を、現代という時代に即して再構築するのが本来の目的であって、国がここまで経済的・社会的に育った以上、官主導のスタイルは多くの部分で使命を終えたという意味合いにおいて、公務員は減り、存在意義の低い役所や機関は廃止・統合されるべきだというのが本旨なのである。
 だから、公務員や役所が減るというのは結果であって目的ではない。そして減る公務員や役所は、無駄なものが減るのであって、必要なものもなんでもかんでもとにかく減ればよいというのは本末転倒である。政府も役所も憎むべき悪だから根絶してしまえという無政府主義ならそれでもよいが、やはり常識的に考えれば、政府や役所がなくなってしまうと困ると思うのである。
 問題は、ごく単純なことであって、不要なものを捨て、必要なものを残すということに尽きるのではあるまいか。いや、全く不要な役所や機関はないから、それでは行革はできないという人もいるかもしれないが、それならそういうものは必要な程度にだけ残しておけばよい。5人でよいところに50人も100人もいたり、100万円あればまにあうものに1000万円の予算をつけたりさえしなければ、それでよいのだ。それを実行しようというのが行政改革であれば、エゴイスティックな抵抗は道理の前に屈服させることができるだろう。
 それができないのは、基本的な認識が本末転倒しているからではないか。赤字国債でつぶれかかった財政を再建することのみに目を奪われて、要不要の判別は二の次というようなことをやっていれば、正当な抗議を受けるのは当然である。今回の族議員たちの抗議が正当なものかどうかは知らないが、要するに、施策が行革の本旨にそっているかどうかは、常にチェックして、本末転倒のないようにやってほしいと思う。あくまで国民本位の視点を保って、国民が困るのでなく利益を受けるような省庁統廃合を進めてもらいたい。
 本末転倒といえば、規制緩和もそうである。なんでもかんでも規制緩和すればよいかのような空気が、誰によってだか分からないが、流されているような気がする。規制緩和すればとにかく誰でも商売がしやすくなる。だから景気が良くなるだろうというのでは、あまりにも消費者を馬鹿にした話である。これもまた、前時代的な、無意味で一部の者の既得権を守るだけの規制をはずし、正当な商売を活発化させるのが本旨であって、国家が自由取引を規制するのはけしからんと、必要な規制まではずしてしまうというのでは、ずるい商売人を利するばかりである。市場経済が悪い商品を淘汰するというかもしれないが、悪徳商人というのは淘汰される前に儲けるのであって、必要な規制がなくなれば、次から次へと消費者がだまされる商品がはびこるのは目に見えている。
 不景気から抜け出したい一心で、そういう政策がとられるとしたら、これまた本末転倒の発想といわなければならない。無政府主義的に規制廃止論を叫ぶならそれはそれで道理は通るが、やはり常識からいえば、当を得た規制はあってほしい。そうでなければ安心して生活できないではないか。だからといって、景気が良くならなくてもよいというのではない。景気も良くなり、生活の安心も保たれるようにすべきなのであり、つまりは不要・不当な規制はやめて、必要・妥当な規制は維持すべきという、当たり前の結論になる。それが当たり前だと分かっているからこそ、叫ばれているのは「規制緩和」であって、「規制廃止」ではないのである。
 すべからく、ほどほどが肝心である。ほどほど、というのは、中途半端に、という意味ではない。必要性、妥当性に合わせて、という意味である。当たり前のことである。当たり前のことほど強いものはないのだから、政府も、強い政府であろうとすれば、当たり前の政策を行えばよいのだ。にもかかわらず、役所も規制もなくなりさえすればよいかのごとき極論に正義があるかのような風潮となっているのは、それで得をする者たちが、陰でうごめいているからだと思えてならないのである。

1997.05.11