自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

005.

現実問題に対処するべく物事を考えるときは、中途半端に考えを止めず、最後まで「掘れる」ほど考えてからやめるべきである。それでも失敗はするものである。まして途中までしか考えていなければ、ちゃんと失敗することさえできないだろう。

【追記20190120】タトゥー(刺青)に対する偏見というものがあるらしく、それに対する反論なるものも含めて議論になっているという。この問題を考えてみよう。社史を制作していることで企業べったりの考え方の持ち主のような偏見を受けたりする私にとっては何らかの意味があるかもしれない。
 たとえ偏見であっても、好き嫌いを表現する自由は保証されなければならないと思う。偏見であるかないかはどこまでも未定の問題だからだ。だから「タトゥーは嫌いだ」とも「タトゥーは好きだ」とも言うのは自由だろう。だが、100%の好き嫌いというものは、その人間を貧しくし、考え方を誤らせるもとになると考える。「タトゥーが嫌い」な人間も、「嫌い」は90%で10%は未定として保留して、自分が無知だから刺青の意味や価値や良さを実感できていないのだという可能性も考えておくべきなのだ。刺青だけの問題ではない。世代や性別、生い立ちや職業や学歴や、もっと言えば民族的な歴史や社会や文化やその他の個々人が置かれた環境で個々人の感性や価値観や思想は異なるのである。理解できなかった他人の感性や価値観や思想を、言葉だけでなく感覚的にいくらかでも理解できた時に、人の心はより自由になる。そして改めて考えるべきテーマが生まれたり、時にはより幸福感にあふれたりするものだ。どちらにしても、そのことが、自分を豊かにしていることだけは間違いないと思う。

 企業社会万々歳でもない自分が、なぜ社史など制作しているか。それは資本の論理に賛成しているからでは必ずしもなく、資本の論理というものをその中に入って見極めたいからである。はっきり言って、資本家は労働者より自由なわけではない。むしろ、労働者以上に資本に縛られているのである。

 サラリーマンが嫌で脱サラすれば、もう資本家である。そしてその多くが事業に失敗する。失敗しないまでも、収入が社員以下という私のような者もいる。資本主義社会が行き着く先は、資本家と労働者のどちらがどちらを支配しているのだか訳が分からない社会ではあるまいか。そういう社会を見てみたいというのが現在の私の大きな関心である。