自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

ホビー・ライティングの広場

意見

ペット問題

 団地に住んでいると、ペットを飼うなペットを飼うなとうるさいことである。わが家には2匹のネコがいるが、飼うな飼うなといわれてもどうしようもない。飼うなと言う人は彼らをどこかに捨ててこいとか保健所で始末させろとか家で煮て食えとか言うのだろうが、私は「イヤだ」と答えるのみだ。
 この問題の根源をよく考えてみると、それは行政が「団地ではペットを飼ってはならない」などという妙な「規則」をつくっていることがそもそもの間違いであることに気づく。ペットを飼う飼わないは元来個人の自由であって、イヌでもネコでも金魚でもカメでも文鳥でもハムスターでも、一律に行政が「飼ってはならぬ」などという規則を定めるのは明白な越権行為である。規則とはほぼ万人が認めるであろうようなことをのみルール化したものであるべきであって、トラやライオンやニシキヘビを飼ってはならぬというなら従うが、すでに団地内でも3?4割の家庭で飼っている程度のものを禁止されることは納得できない。
 それは、中にはエレベーターでオシッコしたり、周辺通路でウンコをしたりするイヌやネコがいて、公共生活上の迷惑が発生する場合もあろう。だがそれは通常の迷惑問題として住民が話し合い、解決すべきことがらである。にもかかわらず、「飼ってはならぬ」という規則があるものだから、単なる迷惑問題がそれ以上のものになる。「エレベーター内でオシッコさせないようにしてください」「分かりました。気をつけます」で済ませるべき問題が、「飼ってはならないというのに飼って、その上エレベーターでオシッコまでさせてけしからん。なんとかしろ」という居丈高なクレームになるから、言われた方も売り言葉に買い言葉「規則を笠に着てエラそうにぬかすな。お前のところのガキの毎日の泣き声のほうがよっぽど迷惑やないか」と怨念と怨念の対決になる。
 こんなことになる原因は、繰り返すが、行政の越権的規則にあるのである。規則がなければ互譲的解決に向かうものを、規則があるために、ただイヌやネコが「嫌いだ」というだけで人が他者に強制的態度に出ることを認める結果になっていることの弊害はよくよく認識されなければならない。そんな人たちには、われわれの遠い祖先が、イヌやネコのためにどれほど餓死から救われたかを考えてもらいたいものだ。
 規則がなければ、冷静な迷惑問題であるといった。では、規則を離れてペットの迷惑度を考えてみるとどうなるか。
 イヌネコの飼育率はマイカーの普及度にほぼ匹敵し、マイカーの迷惑な点は?駐車の場所をとる?有害な排気ガスと騒音をまき散らす?交通事故を起こす危険がある??などである。これに対しイヌネコは?時々あらぬ場所にオシッコとかウンコ(ネコの場合は2?3センチのものを2つ3つ)をする?発情期などに一時的に大きな鳴き声をあげる(うちのネコは避妊手術をしているのでそういうこともない)??という程度のものである。マイカーの迷惑度とは比較にもなりはしない。規則から離れてペット問題を考えればその実態はこういうことである。あとは単に「嫌いだ」というだけのものにすぎない。
 日本国内で何らかのペットを飼っている家庭は約5割。アメリカではこれが6割近くになる。また最近のマンションは、ペット禁止では入居希望者が減るため大半がペットOKに変わってきている。こうした状況を考えれば、ペット禁止の団地規則の不合理さが自ずと分明になるのである。
 また、アニマルセラピーが医療として認知されていることが示すように、ペットとのふれあいが人の心身の健康に多大な好影響を及ぼすことは厳然たる事実である。たとえば、

  • 精神打撃によるストレスが加わった場合、ペットを飼っている人の方が飼っていない人よりも通院回数が増加しにくい。
  • ペットとのふれあいはアルツハイマー患者の治療に効果がある。
  • ペットを飼っている人の方が飼っていない人より収縮期血圧及び血清中性脂肪値が低く、心筋梗塞後の1年生存率も高い。

などが医学的に実証されているのである。
 これらのことから総合的に考えれば結論はただ一つ、「行政はペット禁止の団地規則を廃止すべし」である。これこそ、政治や経済の評論家が最近さかんに言っている「小さな政府」の理念にも最終的に合致することであろう。